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現代ドイツ―統一後の知的軌跡―(三島憲一/岩波新書) [読書]

「壁が開いてからよく言われたことだが、西の都市では、向こうから来る人を見て、すぐに『ああ、東の人だな』と分かったという。実際の正解率は別にして、私などが見ても、服装が多少とも粗末というだけでなく、デザイン、色の取り合わせ、髪型、いや体つきや物腰が違っているように見えた。同じジーンズをはいていてもどこか違うのである」

ドイツ文学を専攻してました、ドイツに留学してました、と言うと、たまに最近のドイツについての質問を投げかけられる。「統一からずいぶん経つけど、東西での格差はなくなってきたのかしら」「ネオナチって増えてきてるの?」「EUや統一通貨ができることで、ドイツらしさみたいなものが失われることについて彼らはどう考えているの?」などなど。すいません、分かりません。そんなにちゃんとドイツを見ていたわけでもないし、現地の人とそんな難しい話したこともないし。ドイツを全部見たわけじゃなし、テレビや新聞も100%理解できるわけじゃなし、自分で見た限りの感想、くらいしか述べられないのを仕方ないと思う一方で、ちゃんと現代ドイツについても知っておきたいな、と思うようになった。17世紀の文学ばかり楽しくやっていた学生時代。それはそれでドイツに対峙する一つの姿勢としてアリだったと思うけれど、こうして現在のドイツについて知りたいという欲求が生まれてきたのもまた、自然なこととして大切にしたい。

この本は、壁崩壊から統一を経てのドイツの葛藤や決断を、ドイツ人はどう議論してきたか、という視点で捉えて、知識人が新聞や書籍、講演で議論してきた内容を引用しながら記述している。目からウロコな発見がものすごくたくさんあったと同時に、これもまたドイツの姿を映した一つの断片にすぎない、ということも考えなければならないと思った。一つの本を読んだからって、その世界がすべて分かるなんて思うのは違う。それに、いくら議論の好きなドイツ人といっても、この本に引かれている議論にすべてくっついていって、そこに共感したり反対意見を持ったりしたわけでもない、流れに身を任せるしかなかった人々だってたくさんいるのだ。難しいことなんて分からずに、こつこつと働いてきた人々にとって、自分の与り知らぬところで国の形が変わること、そこにどんな意見を提示していいのかも分からないままに物事が進んでいくことがどんなに切ないことか、そんな人たちにとって国家とは、アイデンティティーとはなんぼのものなのか。そんなこと、日本人である私が東京で、机の前でくよくよ考えたからって、一冊の本を読んだからって分かりっこないのだ。

それにしても、ドイツ人とは議論する人々だとつくづく思う。もちろん「議論するドイツ人」というアングルで書かれた本だからそう見えるだけなのだろうが、いやまあ、よく飽きないもんだと。壁の崩壊と、その後の統一に向けた動きは、議論というよりも民衆の圧力によって実現した。東部の都市・ライプツィヒで毎週月曜日に行われていた集会が、やがて大きなうねりとなって壁の崩壊を実現した。その後、西ドイツと東ドイツをどのように共存させていこうか、ということについては、さまざまな議論があったのだという。東西統一は、実現してもずっと後の話、とされていた。それがやがて、我々はひとつの民族である、という強い民意の後押しを受けてわずか一年余りで統一が実現してしまった。でもこれは性急すぎなかっただろうか。そもそもドイツとはどこからどこまでを指すのか。ひとつの民族、とはどこまでの範囲を含むのか。日本のように「一民族・一国家」でほぼ(あくまでも、「ほぼ」だけど)括れるような環境にはドイツはないわけで、たんに旧西ドイツと旧東ドイツを合わせればドイツになるかというとそうでもなかったり、「ドイツ人」の定義もまた意見がさまざまだったり、そもそも「われら」「ひとつの民族」のために建設される国家が、かつての第三帝国みたいな排他的な態度を取らずにすむのか、などなど、議論すべきことはたくさんあったはずなのに、実はその辺のことがけっこうあやふやなままに、統一は実現してしまった。
東西ドイツの経済格差は、統一後数年たって私がドイツへ行ったときにも、私にも何となく分かるくらいに一目瞭然で、それは経済的な格差にとどまらず、例えば知的な格差や(旧東ドイツは学校でロシア語を教えていたので、たいていの大人は英語ができない、とか)、もっと実際問題として、モノが不足していたり、就職口がなかったり、なんとなーく東の人って垢抜けてなくて、西の人からちょっとバカにされていたり、東の人は西の人をひがみっぽく思っていたり。それでも、統一したんだからそれでやっていこう、ということで前進するドイツ。もうそれどこじゃなく、さまざまな課題がドイツには降りかかってくる。
例えば、政治難民をどの程度受け入れるか。例えば、過去をどう清算するか。東西で失業率に格差があるところへ、外国人労働者をどの程度受け入れるべきか。外国人への反感から生まれたネオナチの暴力行為。ベルリンにつくることになった、ユダヤ人追悼碑を、だれのための追悼碑にするのか。そこには強制収容所で口を塞ぐために殺害されたナチ党員は含まれるのか。戦後、チェコなどの占領地で地元の人々から土地を追われた植民者は、スイスや米国に亡命を余儀なくされた人々は…。湾岸戦争やユーゴなどの国際紛争に、どの程度コミットすべきなのか。大量虐殺が行われたことに対して派兵する権利が、あのホロコーストを行ったドイツにあるのか。じゃあ派兵せずに見殺しにすればいいのか。この紛争でどちらが正しいか、ドイツはちゃんと見極めているのか。パレスチナでの紛争に介入する背景に、ユダヤ人を迫害した後ろめたさが含まれていないか。ではその反対意見には、ドイツ人の根底にある反ユダヤ主義が隠れていないのか。EUの加盟は、どの範囲まで認めるべきなのか。トルコが加盟することは、「ヨーロッパ」の定義を変えてしまうのではないか。じゃあヨーロッパって何。EUが、ヨーロッパが、ドイツが守るべきアイデンティティーって何。トルコを迎えて、これからヨーロッパの新しい歴史を構築していくという選択肢はないのか…。

まあとにかく、よく議論するものだと頭の下がる思いだった。議論のほとんどは、簡単に答えの出るものでもないけれど、それでもデリケートになりがちな問題や課題についてよく議論していると思うし、もっと感心するのは、感情に走らずにきちんと相手の言い分を聞いてから反論していること。ドイツのほんの断片しか見ていない私にも、この点はドイツ人の立派さとしてしっかりと印象に残った。身分や立場の上下に関係なく、ましてやドイツ語の出来不出来にも関係なく、議論するときにはきちんと相手の意見を聞いてから反論し、すごく建設的で知的な議論をしてくれるのが嬉しかった。それは駅で切符を買うときも、大学の講義でも一緒だった。論点がどこにあるのか、相手はどのような立場でどのような意見を述べているのか、自分が感情的になってしまっていないか。反論する前にきちんと呼吸を整えて理論を組み立てるから、議論の過程を見守る読者としてもとても引き込まれた。それに、これからも幾多の課題に直面するであろうドイツ・ヨーロッパの将来を見るのが、何だかとても楽しみになってきた気がする。冒頭の引用にあるように、34年間べつべつの国家だった東西ドイツでは人々がまったく違う生活をしていて、統一したことじたい、ひとつの大きな実験みたいなものだったから。同じように、ヨーロッパ共同体も、統一通貨も、その中でドイツが果たす役回りも、かつてどの国家も経験したことのない実験みたいなものだ。この実験に果敢に挑戦しようとしているドイツ。原子力発電をスパッとやめてしまったときのように、困難にぶつかりながらもズブズブと進んでいくんだろうと思うと目が離せない。これからも、古い時代の文学を自分のペースでどんどん掘り下げて読んでいきたいと思うけれど、同時に、今そこにあるドイツもきっちりと自分の目で見ていきたいと思うようになった。そして、同じように自分の国・日本もきちんと見ないといけないなと。

現代ドイツ―統一後の知的軌跡

現代ドイツ―統一後の知的軌跡

  • 作者: 三島 憲一
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2006/02
  • メディア: 新書


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